光明寺について

十六羅漢像

十六羅漢像

元々は裏庭の大もみじが立ち並ぶ斜面のあちらこちらに散らばっていた。江戸期に設置されて以来、たぶんずっとそのままだったと思われる。一応そばまで近づく獣道のようなものがあったのだが、急な斜面で非常に危険なため、数年前に思い切って安全な所へ降ろした。機械が入れず人力で動かしたので大変な作業であった。最初は考えてもいなかったが、降ろし終えて数を当たると十六体ある。「あっ、十六羅漢として整備していたんだ」と、後になって気づいた次第である。

大変な思いをしたおかげで収穫もあった。しだれ桜の下に並べてじっくり観察すると、写真の羅漢像背面に「光明寺十世朝空祖海上人代」と刻まれているのを発見することが出来た。祖海上人は旧本堂を再建した傳空上人の直前の住職である。少なくとも二百五十年位前には設置されていたことになる。

光明寺のしだれ桜

光明寺のしだれ桜

光明寺の近所には昔から有名なしだれ桜があった。真宗本願寺派西円寺のしだれ桜で、美祢市の指定木であった。隣町に生まれ育った私は、子供のころに遠足か何かで見に行ったことがあり、それが初めての対面であったと思う。残念なことに落雷の被害で樹勢が衰えて枯れてしまった。現在、西円寺では後継として植えられた数本が毎年見事に咲いてくれている。いずれは大樹になってくれるだろう。

さて話は変わって光明寺のしだれ桜であるが、枯れてしまったあの老木の直系だと聞いている。しかし、現状ではまだまだ大した事は無い。と言うのも、枯れてしまった西円寺の桜があまりにも立派だった(私の記憶では巨木だった)ので、それに比べるとこっちの桜は見劣りするのである。行政の指定木になっていないとういう事もあった。ところが平成12年の春であった。日本桜学会の関係者が立ち寄られ、この桜を随分と持ち上げられてしまったのである。曰く「姿かたちが非常に美しいので驚きました。このまま月日を重ねれば間違いなくとびっきりの名木になりますよ」などとおだてられて、急に気になりだしたのである。

言われてみれば確かに姿は良い。一言で言えばまるで松の盆栽のような姿で、珍しいといえばたしかにそうである。このような姿の桜を写真でも見たことは無い。名木と呼ばれる全国各地の巨大な桜は目の前にするとその圧倒的な存在感に感銘を受けるのだが、光明寺のしだれ桜はまだまだ小さい。しかしその姿は意外にも絵になっているのである。元来桜といえば写真愛好家の格好の被写体であるが、毎年春になるとこの桜を目当てに訪れるカメラマンが意外とおられる。彼らの気持ちになってあらためて眺めてみると「現状でもけっこう貴重なんだ」と見直した次第である。

ありがたいことに桜学会の先生により、光明寺のしだれ桜の植物学的な血統が明らかになった。それによると江戸彼岸系の野生種に近いものであるとのこと。長寿になる可能性は高いらしい。大事に守ってやりたいと思う。

しだれ桜の写真はこちら→https://koumyou-ji.or.jp/news/archives/57

 

光明寺の大銀杏

十夜会の光明寺

光明寺は大昔から真言伽藍があった土地に建つのだが、浄土教寺院としてはある意味まっとうでは無い伽藍配置である。何よりもまず気になるのは本堂の方角である。浄土教寺院の多くは東向きに構えているものである。なぜなら本尊阿弥陀如来は西方浄土の教主であり、我々衆生が弥陀に手を合わせるとき、西に向かって拝むようになるのが理想的だと考えるからである。ところが光明寺本堂は西向きである。しかも、その本堂の正面には巨大な銀杏がある。

「どうしてこんな 所に植えてあるんだろう」と、ずっと思っていた。大変邪魔というか、不都合なことが多くて困るのである。おそらく市内でも最も高い樹木であろう。測ったように正確に本尊の真正面にあるところを見ると、それなりの意図があってのことと思うのだが、誰が今日のこの姿を想像していたであろうか。万が一倒れたらなどと考えるのも怖いのだが、これだけの大樹となると今となっては手の出しようが無い。初秋になると大量のギンナンが落ちてきて強烈な臭いに悩まされる。素手でふれようものなら、かぶれて大変なことになる。ギンナンが終わると今度は色づいた扇葉が大量に降り積もる。それもバサバサと音を立てながら降るのである。

光明寺の大銀杏

さて、そんななんともやっかいな巨木であるが、ある時この銀杏が本尊の真正面に存在する理由らしき現象に気付いた。ご存じの通り、彼岸になると夕日は真西に落ちて行く。この時、光明寺の銀杏の幹が作る真っ直ぐな陰は、本堂の阿弥陀如来に向かって一直線に伸びたまま夕闇が訪れるのである。

天文学が非常に発達していた古代マヤ文明や、古代エジプトなどに見られる神殿では、年に数回だけ、太陽の光と影により作り出される特異な現象や光が差し込む神聖な場所の存在が知られている。これらには非常に重要な意味が込められていたという。光明寺で彼岸に観察出来る少々ドラマチックな夕暮れも同様に思えて来たのである。

彼岸の頃に見られる大銀杏の影

ひょっとすると傳空上人は旧本堂を再建する際に、今日のこの姿を意図していたのかもしれない。この場所の東側は草場山へと続く稜線のすそであり、山を背にすると西を向く土地である。このような立地条件であれば、京都の東山に多数ある有名寺院の例に習い南向きに建てる選択もあったはずである。なのに西を選択している。しかも正真正銘の真西であり、正面には天高く伸びる銀杏である。初めて気づいたのは建てかえ前の旧本堂の階段に腰を下ろして目の前の巨木を眺めていた時だった。 「きっと先人たちの意図があったにちがいない...」と。

旧本堂の柱(赤松の柱)

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旧本堂外陣の天井を支える巨大な桁を目にすると「あの時代にこの重い部材を持ち上げて組んでいったのか」と、驚きを隠せなかった。内部の柱を観察すると二百四十年を過ぎようとする今も表面に染み出たヤニが確認できて、素人目にも松が多用されていることが解る。これらはみな赤松である。この本堂が建築された当時は太い柱材として赤松がよく利用されていたのであろう。

もともと山口県はもとより、広くは中国地方全般の山において赤松は豊富にあったと聞いている。 しかし戦後の杉や檜の植林推進で県内の赤松の山は次々に姿を消して行った。残った山も松食虫により壊滅的な被害を受け、一部に残る松茸採取の山以外では赤松はほとんど見られなくなっている。

地元で生まれ育った私は幼少のころ山に入って遊ぶことが多かったが、当時わずかに残っていた赤松の巨木には、軒並み切り傷の様な不思議な跡が多数残っているのを眼にしている。父に尋ねると「戦時中に燃料として利用するために松ヤニの採取が行われたのだ」と教わった記憶がある。

厚氏の墓石(五輪塔)

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平安中期頃より真言寺院として当地に存在していた光明寺は、室町中期の応永の戦火によりことごとく伽藍を焼失した。かろうじて残った本尊大日如来は、里の人々が結んだ三間四面の草庵でひっそりと守られていたという。その後、光明寺が復活するのは約180年後の天正年間、織田信長の時代であった。江戸初頭になると厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)が引寺され、浄土教の念仏道場としてますます繁栄することになる。引寺の際には厚氏の墓石群の一部が移されており、五輪塔が今も境内や寺墓地に残っている。

奉納三部経塔

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山門横には鐘つき堂の跡が残っている。戦前まではここに梵鐘があったのだが、戦時中に供出されており、今は境内の違う場所から移転させた奉納塔と厚氏の墓石が据えてある。奉納塔は一見大型の墓石に見えるが、これは先亡供養の為に浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を寺に納め、その証として建立された供養塔である。

石碑側面には二名の戒名が掘られており、いずれも院号が授与されている。俗称からみても、両人とも武士であることが解る。背面の文字によると二十四年後の嘉永六年に、両名の二十五回忌供養で門弟一同によって建立したとある。實相院廓道朗然居士の記録は光明寺の過去帳にも残っている。寒月院釋凋山秀智居士は浄土真宗の法名であろう。施主が門弟一同とあることから、剣術道場等の関係者による供養ではなかろうか。困難とは思うが、ここまで丁重な供養を行うことになった経緯を調べてみたくなる事例である。

奉納三部経塔
文政十二年巳丑秋九月六日卒三十五歳 實相院廓道朗然居士 俗稱 來原佐冶馬清次
文政十二年巳丑冬十一月十二日卒七十歳 寒月院釋凋山秀智居士 俗稱 西田佐仲清成

山門の彫刻と天井画

山門の彫刻.jpg

境内を縦断して大日堂広場へ伸びる参道の入口には、いかにも時代を感じさせる山門がある。清末藩の資料にも建立時期は不明とあり、本堂よりもさらに古いものである。平成22年の豪雨災害により広場にあった大日堂は失われたが、そこへ伸びる参道の正面にあることからも、本来は大日堂の山門として、現光明寺が浄土教寺院として天正年間に開基される以前から存在していた可能性もある。真言時代の光明寺を意識させる最古の建造物である。

山門天井画__large.jpg

これまで幾度か部分的な補修が行われているが、注意深く観察すると天上板に彩色の施された仏画が多数確認できる。

山門の彫刻4__large.jpg

素晴らしく手の込んだ彫刻である。山寺の小規模な山門にしては不釣り合いなほど贅沢な造りである。

御本尊石碑

山門石碑.jpg

山門の前に建つ石碑には光明寺本堂と旧大日堂の御本尊名が刻まれている。正面には「當山御本尊地主大日如来者行基菩薩之作」と「當山御本尊阿弥陀如来者安 阿弥之作」の文字が確認できる。前者は平安末期に村内の真言伽藍より移転された大日如来が、奈良の大仏の建立で勧進を務めた大僧正行基由来の如来であることを示し、後者の「安阿弥」とは、鎌倉時代を代表する佛師「快慶」の別称であり、厚氏の菩提寺より移された阿弥陀如来像が快慶作であることを示している。

右側面には「浄土真宗西山流曼陀羅山光明寺」とあり、初めてこの表記を発見した時「この寺は昔は真宗だったのか?」と不思議に思ったものである。 今日の浄土真宗本願寺派(西本願寺)あるいは真宗大谷派(東本願寺)など、親鸞の流れを伝える一派のように受け取れる表記である。天正年間の開基時より、證空上人(西山上人)の流れをくむ浄土宗の一派であったはずの当寺に、なぜ浄土真宗という表記があるのであろうか?すこぶる疑問に感じてあれこれ調べてみると次のようなことが解って来た。

浄土真宗西山流の石碑

浄土真宗(もしくは真宗)という呼び名は、明治五年に現在の真宗教団の宗名として公称が認められるのだが、それまでの真宗教団は一般的には一向義もしくは一向宗と呼ばれていたのである。本来「浄土真宗」という語は宗名を示すのではなく、かつては「浄土門の真実の教え、法然によって明らかにされた浄土往生をとく真実の教え」の意で用いられていたのであり、特定の宗派を指すものではなかったという。従って開基当時あるいは江戸初頭の建立と考えられるこの石碑にある「浄土真宗」の文字に対し て、今日我々が連想する「浄土真宗=親鸞の宗派」の解釈は的外れも良いところであった。光明寺の石碑にあった表記の意味するところは、正しくは「浄土門の真実の教え(法然の教え)を伝える、(浄土宗)西山流の曼陀羅山光明寺」である。これなら納得である。知らなかったとはいえ西山派寺院の住職として恥ずかしい話であった。

法然上人の直弟子で後に彼らが流祖となって後世に残った浄土教の宗派は、現在光明寺が所属している證空(西山上人)の西山流(今日の浄土宗西山三派)と、弁長の鎮西流(今日の浄土宗)、そして親鸞の一向義(今日の真宗十派)である。また證空の孫弟子であった空也が開いた一派が現在の時宗である。これらは全て法然上人を源流とする浄土教(浄土門)の宗派である。日本の各宗派については別のコーナーで解説しておりそちらも参考にして頂きたい。

本堂と庫裏を結ぶ太鼓橋

太鼓橋.jpg

真言の長い歴史がある境内地で復活した光明寺は、独特の伽藍配置になっている。その象徴ともいえるのが、旧光明寺の本尊であった大日如来が安置されているお堂を優先した山門と参道の配置であり、その参道を横断する太鼓橋である。山門から大日堂へ続く参道をふさがないように、庫裏と本堂は離れた場所に建てられた。そのため本堂と庫裏をつなぐには、このような手間のかかる太鼓橋が必要になったのである。

太鼓橋

地方の山寺にしては少々不釣り合いにも思える回廊であるが、これも真言時代の大日堂があった故に生じたのであろう。

裏庭の大もみじ

裏庭のもみじ.jpg

樹齢は不明であるが見事な大もみじである。斜面の一部は堅い岩盤のため根が地表を這うように広がっている。現在しだれ桜の周囲に並んでいる十六羅漢が、以前はこの斜面に点在していた。裏庭の南側や本堂背後の斜面には枯れて倒れたと見られる古い株が残っており、過去には一際大きなもみじがあったようである。 秋になると見事な紅葉を見せてくれるためちょっとした名所であったらしい。

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