光明寺について

光明寺縁起

光明寺旧本堂

山口県文書館所蔵の県庁伝来旧藩記録「防長寺社由来」等によると、当地には往古より真言の伽藍が存在していたという。平安末期には村内大日ケ浴にあった行基菩薩ゆかりの真言伽藍が荒廃したため、本尊大日如来がこの地に移されて光明寺と号していたという。しかし、この真言伽藍も戦乱や飢饉によりいつしか諸堂は荒廃し、大日如来が鎮座する堂を残すのみになる時代もあったという。ここに褫谷記室禅師と云う人、廻國のみぎりに此の大日尊像の霊夢を感して再び坊社を建立し、照山融全禅師へ伝えたもうたという。

月日は流れ、応永6年(1399年)周防・長門(現在の山口県)を本拠地としていた守護大名の大内義弘が起こした反乱(応永の乱)で義弘が憤死すると、残った大内盛身と大内弘茂による家督相続争い(応永の兵火)が勃発し、この内戦の際に光明寺の伽藍はことごとく焼失して再び本尊のみになった。この時、光明寺の縁起等も粉々となり、これを歎いた里人達は三間四面の草庵を跡地に結び本尊を奉っていたのである。

寺伝によると現光明寺の開基は真言時代の旧光明寺焼失からおよそ180年後の天正8年(1580年)であったという。かつてのご本尊大日如来が鎮座する草庵(大日堂)のそばに浄土教寺院として開かれたのである。明暦年間(江戸初頭・1655年頃)には、本村字下村(現在の西厚保町大村地区)にあった曼陀羅寺(当郷の地頭であった鎌倉下向武士の厚氏菩提寺)が玉空傳瑞和尚により引寺されている。この時より当寺は山号を「曼陀羅山」院号を「大日院」寺号を「光明寺」と号するようになり、曼陀羅寺より移された阿弥陀如来を本尊に迎え、浄土教の念仏道場として隆盛を誇ったという。以降も背後にある真言草庵(大日堂)との深い関係は続き、旧光明寺の歴史を色濃く残した真言霊場の地に建つ浄土宗西山派の寺院として今日に至っている。

建て替えのため平成24年秋に解体された旧本堂(写真)は、安永年間末期(1780年頃)に傳空上人により建立されたもので、江戸中期の典型的な寺院建築様式の古寺であった。本尊阿弥陀如来とその脇侍(観音菩薩・勢至菩薩)が納まる三尊宮殿は、背面に残された上人直筆の墨書により安永8年(1779年)に制作されたことが確認されている。須弥壇は約三百年前の宝永八年三月(1711年)喬空上人慈門和尚による設置であった。いずれも本堂建てかえの際に復原修理が行われている。

光明寺山門

本堂背後にあった大日堂(平成22年豪雨災害により被災解体)へ伸びる参道の入口には、いかにも時代を感じさせる山門がある。清末藩の資料にも建立時期は不明とあり、本堂よりもさらに古いものである。これまで幾度か部分的な補修が行われているが、天上板に彩色の施された仏画が確認出来、鬼瓦には菊の紋章が掲げてあるのが興味深い。

山門の前に建つ石碑には光明寺本堂と大日堂の御本尊名が刻まれており、「當山御本尊阿弥陀如来者安阿弥之作」と「當山御本尊地主大日如来者行基菩薩之作」の文字が確認できる。前者の「安阿弥」は鎌倉時代を代表する佛師「快慶」の別称で、厚氏の菩提寺より移された阿弥陀如来像が快慶作であることを宣しており、後者は平安末期に村内の真言伽藍よりこの地に移転していた大日如来が、奈良の大仏の建立で勧進を務めた大僧正行基由来の如来であることを伝えている。奈良・鎌倉の両時代を代表する如来が同居しており、これも光明寺の複雑な歴史がもたらしたご縁であろう。

旧本堂遠景

光明寺旧本堂遠景

光明寺の背後には草場山が控えており、門前を流れる原川流域の水田地帯は室町中期、応永の兵火で激しい戦いが繰り広げられた古戦場であった。本堂の前には巨大な銀杏がそびえている。秋には黄金色に染まる光明寺のシンボルである。

光明寺旧本堂と大銀杏

光明寺本堂

光明寺旧本堂は平成24年秋より建て替え工事に入り、翌年夏に現本堂の使用が開始されている。

光明寺新本堂

新本堂大屋根

新本堂と大銀杏

秋の光明寺本堂前

新本堂内部.jpg

建てかえ中の光明寺本堂.jpg

旧本堂は傳空祖吟上人の発願により安永末期に再建されていた。間口七間奥行き六間半(回廊を含む外周は約九間四方)で、周囲のガラス戸とトタン葺きの屋根(内部はカヤ葺きのままである)以外は、ほぼ完全に建築当時のままであった。

光明寺旧本堂__large.jpg

建てかえ前の本堂は、堂内に入るとまず奥行き一間ほどの板張り部分が左右に広がっており、その先に畳敷きの外陣があった。檀信徒は一番手前の板張り部分か畳み敷き部分に着座するのだが、見ようによっては一等席二等席の区別があったのかもしれない。

旧本堂内部.jpg

外陣の先、中央いちばん奥の周囲より一段床が高くなっている部分が内陣(僧侶が着座する範囲)である。周囲を丸柱が囲っており内陣と外陣が明確に区別してあった。内陣はいわば聖域であり一般人の立ち入りは禁止である。内陣の左右にあるスペースを余間と呼ぶが、この部分は僧侶の控えの間や執務室として利用することもあったようだ。江戸期における旦那寺住職の権限というものはかなりのものであったらしいが、内陣は物理的にも高い所でありまさに上座である。このような内部の構造を見ると当時の身分制度の厳しさを垣間見るような気がする。

旧本堂内陣__2__large.jpg

天井には大型の行灯を下げる木製のフックが残っていたが、夜間はさぞかし暗かったであろう。すでに二百四十年近く経過しており内部の柱は軒並み北東方向に傾いていた。冬季は柱と引き戸の隙間から容赦なく寒風が吹き込み、寒さが骨身にしみる本堂であった。

行灯用のフック.jpg

本堂御本尊阿弥陀如来立像

光明寺ご本尊 阿弥陀如来立.jpg

本尊阿弥陀如来立像は鎌倉下向武士として当郷の地頭であった厚氏の菩提寺(曼陀羅寺)より移されたもので、安阿弥(鎌倉仏師快慶)の作と伝わる。観音菩薩および勢至菩薩の脇侍を従えた弥陀三尊形式で宮殿に納まっている。傷みが激しかったが、平成26年に修復が行われ、現在では往時の輝きを取り戻している。

三尊宮殿と須弥壇

三尊宮殿と須弥壇.jpg

いずれも各部の傷みが激しかったが、平成24年秋より本堂の建てかえ工事となり、その間に大がかりな解体復原修理が行われている。三尊宮殿は約240年前に制作されたもので、やや特殊な様式である。一般的な三尊宮殿は一つの部屋に三尊が納まるのだが、この宮殿はそれぞれ独立した部屋に阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩が安置されている。宮殿の背面には以下の通り傳空上人による墨書が以前より確認出来ていた。一方、宮殿が乗る須弥壇はさらに古いものであった。解体修理の際に内部に残されていた覚え書きが発見された。それによると、建立されたのは宝永8年3月慈門上人の代で、約300年前であった。

解体修理直後の三尊宮殿と須弥壇

復原修理の様子はこちら↓

https://koumyou-ji.or.jp/voice/archives/137

https://koumyou-ji.or.jp/voice/archives/150

 

奉建立三尊宮殿 安永八亥三月吉辰
京都西六條深○花屋町上所 世話方彫物師 相山○八
當山十一世傳空代

旧本堂内陣.jpg

本堂大欄間

旧本堂建立の際に制作されたもので約240年経過していた。現本堂建立の際に中央三枚が復原修理され再び設置されている。

復原修理のの記録はこちら↓

https://koumyou-ji.or.jp/voice/archives/137

https://koumyou-ji.or.jp/voice/archives/150

 

本堂大欄間

修復前の状態である。中央三枚の欄間はまさに制作当時の状態で残っていた。

修復前の大欄間№1

江戸期の院殿号位牌

江戸期の院殿号位牌2.jpg

本堂には江戸期の大型位牌が多数残っていた。多くは浄土宗の位牌であるが、浄土真宗門徒の法名が刻まれた位牌もある。驚いたのはそれらの位牌群に院殿号位牌が多数存在していたことだ。院殿号とは江戸期に武家に授与された最高位の戒名号である。これらの位牌は大名あるいはそれに準じた武家の人々の位牌である。しかし現在では記録も残っておらず、当寺にこのような位牌が多数存在する理由は不明である。地方の山寺に殿様クラスの檀家があるはずもなく、まったくもって不思議なことである。

江戸期の院殿号位牌.jpg

初めて目にした時には百本近くの古位牌が存在していた。その中に三十本以上の院殿号位牌があったのだが、痛みが激しく今は一部のみ残している。かってな推測ではあるが、江戸期において光明寺背後に控える大日堂の大日如来に対する信仰は、今日では想像もできないような絶大なものであったといわれている。そのご縁で他宗の人々や武家の有力者達が、親族供養のために位牌を納めることになったのではなかろうか。

江戸期の大型花御堂

大昔の花御堂.jpg

旧本堂の天井には、おみこしのようなものが保管してあった。当初は想像できなかったのだが、よくよく眺めてみると、どうやら大型の花御堂であることに気づいた。花御堂とはお釈迦様の誕生を祝う法要、いわゆる「花祭り」あるいは「降誕会」の際に釈迦が生まれた時の姿を写した仏像(誕生仏)を奉るお堂のことである。現在光明寺では四月二十九日に小型の花御堂を本堂に設置し、大日如来の大祭である大日祭と同時開催で行っている。法要の締めくくりには本堂で盛大な餅まき&菓子まきを行っており、じいーじいー・ばあーばあーに連れられた子供達の姿が多数見られる。地元の古老に尋ねると、昔はこの花見堂を担いで村内を練り歩いていたのだと言う。随分大がかりなことをしていたものである。

本堂の鏧子(キンス)

天保十二年のキンス

天保十二年に調達されたキンスである。ご覧の通り実に古典的な姿をしている。天保十二年とは1842年であるので、すでに百七十年に達する骨董品(貴重品?)である。さすがに金属疲労が進み往時の音色は出せていない。しかし今も現役である。できれば更新して永久保存にしたいところである。本体に彫り込まれている文字は以下の通り。

長門美祢郡西厚保村光明寺付物
當山十四世本空上人観峯和尚代
干時天保十二丑三月調之

太鼓橋の半鐘

太鼓橋の半鐘

明治十二年に檀家の寄進により設置されたものである。現在でもけっこう良い音色である。法要を開始する合図としてこの鐘を鳴らすのであるが、数年前まで寺の向かいに消防機庫があり、火の見やぐらの頂上にも同じような半鐘があった。いわゆる火事を知らせるあの鐘である。大きさもほぼ同じである。たたくと寺の鐘とそっくりの音色である。法要の際には火事と勘違いされないよう、意識してゆっくり叩く様にしていた。まあそんな事は無いのだろうが。

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